偏差値社会が若者をダメにする

2002年6月27日

切実に感じていること

 最近の若者を見ると、どうも子供っぽいところがあるようだ。場所をわきまえずに大騒ぎするなど、授業中の態度を見てもそう感じる。企業の主催する研修やセミナー等には何度も参加しているが、私語は全くと言っていいほど無いものである。この違いは何か?同じ20代であっても、20代前半と後半では大きく異なる。しかし20代後半が"大人"であり、前半が"子供"であるとは到底思えない。20代前半の"子供"は10代で過ごした生活環境や、そもそもの日本社会というものが、大きく関与していると私は考えている。

 私は"今どきの"若者の心理を理解することで、自分の部下とのコミュニケーションをより良いものとしていきたい。そのためにはなぜ20代前半の"子供"が誕生したのか、まずはそこから考えてみる。私は心理学を通じ、若者の思考を客観的に分析してみることにした。

5年前の自分

 現在私の下には2名の部下がいる。23歳の男性と24歳の男性である。部下の管理を行なうようになり、年下の社員とのコミュニケーションが今まで以上に必要だと感じた。私も入社した頃はよく問題児扱いを受けてきた。髪形、服装に始まり、手さげのカバンの形状が、革靴の形状がおかしいと注意された。当時は反発することしか知らなかった。私に注意するのは主に50代の上司であり、『社会人らしい格好をしろ』が口癖である。"社会人らしい"とは?20代前半だった私にすれば、髪形もファッションもお洒落をして当然の年頃である。ファッションに気を遣っていても、気持ちは社会人らしくしていたつもりである。私は上司の言う"社会人らしさ"が理解できなかった。

 いま私の下にいる2名の若者を簡単に紹介する。23歳男性は社会人2年目のプログラマーである。性格はおとなしい。クールとかポーカーフェイスという言葉がよく似合う。24歳男性は社会人1年目の新人プログラマーである。わけあって24歳にして社会人デビューした。性格は温厚だが、極めておとなしい。普段私から彼らに何かを話しかけてもまともに返事が戻ってこない。返事はしているのだろうが、蚊が鳴く程度の声である。しつこいくらいに『声を出せ!』と注意しているが一向に直る気配は無い。何も話さない、話し掛けてこない彼らを見ていると、どうも個性に乏しいのではないだろうかと考えてしまう。

大人への第一歩

 私が25歳になった頃、上司の私に対する発言が一転した。『大人になってきたな。』と言うのである。私自身特別なことをした覚えは無い。カバンの趣味も、革靴の形状も特に変わってはいない。あえてどこが変わったのか聞いてみると、『発言が変わった』と言うのである。つまり"若者"が"大人"へ変わるのは外見ではない、中身が大事だということだ。中身が若者であるあいだは、たとえ同じ格好をしていたとしても、若者扱いされる。ちょうどこの頃、私は主任となり初めて部下がつけられた。弟ができたお兄ちゃんの心境なのか、私は部下が出来たことがきっかけとなり、"大人"として認められたようだ。

 私は部下がついたことで"大人"へと変身できた。しかし10代、20代前半の若者にとっては部下がつくことはない。では彼らはどのようにして"大人"へと変身することができるのか。ここから先では10代、20代と年代別に見ていきたい。

事件にみる10代の若者像

 若者の心理を分析するうえで例に挙げたいのが、神戸でおきた"酒鬼薔薇"を名乗る少年の事件と、九州でおきたバス乗っ取り事件である。この頃から少年の、しかも17歳という大人になりかけた少年のおこす事件が多発した。どれも共通しているのが、犯人は学校の成績が良く、性格も温厚で事件をおこすような少年ではなかったと、近所の人々が口を揃えて言うことである。そんな彼らが突如とんでもない事件をおこす。バス乗っ取りの犯人は17歳であったと記憶する。彼は第一志望の高校に進学できず、やむなく第二希望の高校に進学したが、たった10日間通っただけで退学している。

 なぜ真面目な少年がこのような卑劣な事件をおこすのか?私は偏差値社会こそが若者を駄目にしている根本的要因であると考える。人の良し悪しを数字で決めつけてしまう偏差値社会こそ、現代の若者の個性を無くし、ストレスを溜める原因ではないだろうか。学校の勉強が出来る生徒しか受け入れない高校や大学。そして大学の知名度やレベルだけでその人間を評価しようとする企業。なによりも親が、我が子の将来のためと言って勉強をおしつけ、偏差値社会での勝ち組にさせようと必死である。

 ところが、個性を排除し学力を重視した社会こそが若者のストレスを膨張させた。その結果招いたのが神戸の殺人事件であり、バス乗っ取り事件である。バス乗っ取り事件をおこした少年にすれば、第一希望の高校への進学ができなかったことで自分は負け組だと感じたのだろう。偏差値社会の世の中で第一志望の高校へ進学できなければ決して出世しない、勝ち組にはなれないと感じていたはずである。事件をおこした彼らが一方的に悪いのではない。日本のこうした社会が彼らのような人間を育て上げたのだ。

事件に見る20代の若者像

 近年の成人式では、二十歳という節目を迎えた若者たちが問題をおこしている。四国では式典の最中にクラッカーを鳴らし、沖縄では酒を飲んで暴れた新成人数名が逮捕・補導された。彼らは普段の生活の中で、明らかに"自分"という存在を見失い、見つけようともがいても、日々のストレスに邪魔されてしまっている。ストレスの捌け口が見つけられないのだ。

 こう考えることも出来る。数年前、"チーマー"という集団が喧嘩などで問題をおこしたことがある。彼らは数名から数十名規模の集団を形成していた。個々ではストレスの捌け口を見つけ出すことができなくなってしまった同士が集まり、共感できる仲間を求め、そして新たな捌け口を探していたのだ。誰か一人リーダーシップをとる人間さえいれば、その人間と一緒にいるだけで溜まる一方のストレスを減らしてくれる。10代で個性を育てることが出来なかった若者は自分の進むべき方向がわからず、いつしかひとりでは行動できなくなった。つまり20代の若者にとっても、10代で偏差値社会の犠牲となり個性を失ったのである。

代弁者

 尾崎豊というアーティストがいた。彼は青山学院高校を中退している。生前に『卒業』や『17歳の地図』という名曲を残し、26歳で他界したが今なお人気は衰えない。彼は10代で感じたしがらみをストレートな歌詞で唄いあげ、同世代の若者はその歌に共感した。若者があえて表現してこなかった己の意見を代弁してくれる彼はカリスマ的存在であった。亡くなってから10年、今なお尾崎豊の死から立ち直れない人間がいる。彼のいない世の中で、いったい誰が自分のことを理解してくれるのか、個性を失い自己表現が出来なくなった若者に代わり誰が代弁してくれるのか。『卒業』を泣きながら唄う人間がまだ多く存在している。彼らもまた10代で偏差値社会の犠牲となり、同時に個性を失い、己の意見を言えずにここまできたのである。

偏差値社会が若者を駄目にする

 戦後の日本は受験戦争で勝ち、一流の大学に進学し、一流の企業へ就職すれば老後まで生活は安定し、保証されていた。企業は個性よりもどこの大学出身かを重視する傾向にあり、故に若者は個性を育てることなく、学力を身につけ、一流大学への進学を目指してきた。若者に将来の夢を尋ねて『別に。』という答えが大半を占めるのも、個性を失い、ただ一流企業に就職するための学問と化した日本の教育制度に大きな過ちがあると考えている。早稲田大学や慶應義塾大学の学生に対し『なぜこの大学を選んだのか?』という質問を投げかけたら、おそらく大半を占める学生は『就職に有利だから。』と回答するであろう。早稲田大学でしかできない学問を、慶應義塾大学だからできるこんな体験を、といった回答をする学生が極めて少ないことは容易に想像できる。他の大学も同様である。一部分の学生は先に述べた大学を目指していたであろう。もしかしたら第一志望の大学へ進学できなかったことで自分の将来に失望し、第2の"酒鬼薔薇"が出てくるのも時間の問題かもしれない。

 近年の不況により企業の人事採用の方針も変わりつつある。出身大学よりも個性を重視した採用へシフトし始めている。企業は長引く不況で大量の採用を控える一方で、個性や個人の将来性を重視し、長らく続いてきた偏差値制度に終止符が打たれようとしている。受験戦争で大変な想いをしてきた若者がいずれ結婚し、子を授け、2世たちがまた同じ過ちを犯さずに済むよう、早急に制度の抜本的見直しを計り、個性豊かな社会を構築していただきたい。

 最後に、本年4月より全国の小・中学校で新しい学習指導要領が実施されている。自ら学び、自ら考え行動する能力や、個性豊かな人間性を育成することが目的のようだが、私はこれに大いに賛成する。これまでの『学力重視』ではなく、『心の教育』にも重点を置くスタイルが本来あるべき姿であり、高校・大学といった高等教育機関でも同様に『心の教育』の早期実施とさらなる充実を計っていただきたい。長い間、日本人は個性に乏しいと言われてきた。そんな時代に終止符を打ち、個性豊かな人間を作りあげることが我が国にとって最重要課題と言って良いだろう。5年後、10年後の個性豊かな日本国に私は期待したい。

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